ライフスタイル
更新2019.04.08
ふと考えてみる。自分はなぜスーパーカーに乗り、何を求めているのか?
JUN MASUDA
ボクは「スーパーカーに何求めて乗っているのだろうか」と。
スーパーカーは、非常に高い運動性能や加速性能を誇るクルマだ。そして、ほかのクルマにはできないことができる存在でもある。しかし、ボクはサーキットを走るわけでもないし、なんらかの競技に参加するわけでもない。
そもそもスーパーカーは“無用の長物”か
そんなボクにとって、正直にいうと、スーパーカーの性能を引き出すことはできないし、そういった機会が訪れることもない。
…となると、多くの人はこう思うだろう。「それでは宝の持ち腐れではないのか?」
確かにそうかもしれない。だが、ボクはそれでもスーパーカーに乗る意味はある、と考えている。
その意味とは何か?ズバリ、「非日常性」である。
スーパーカーは日常性を考えて作られたクルマではない。 車高は低く、乗降しにくく、荷物も載らない。 最近でこそ乗り心地の良いスーパーカーも増えてはきたが、それでもフツウのクルマと比較すれば、乗り心地が良いと言い張ることはできない。
それでも、ボクにとってスーパーカーとは大きな意味を持つ乗り物だ。
人生はいいことばかりではない。
ツライことだってたくさんある。
いや、ツライことばかりだと言ってもいい。
そんなとき、ガレージに収まるその姿を見るだけでも現実を忘れさせてくれる存在がスーパーカーなのだ。
ましてや、実際に自分でステアリングホイールを握ったときの「非日常感」は言葉では表現することが難しい。どんな悩みごとでさえ「ささいなこと」と思えてくるほどだ。そしておそらく、現代のスーパーカーメーカーは「非日常性」を大事にしているようにボクは思う。
たとえば、ランボルギーニはメーターパネル内の文字がすべてイタリア語だ。 主な販売地域が北米であることを考えると、その表示は英語にするべきだろうし、ウラカンやアヴェンタドールのメーターは「フル液晶」だから、プログラム次第で日本語表示にすることだってできるはずだ(設定時のみだが、実際に日本語表示が可能である)。だが、ランボルギーニはメーター表示をイタリア語で通している。
きっとエキゾチックさを大事にしているからなのだろう。
現代のスーパーカーは”雰囲気”を大事にしている
だが、いかに非日常を体感したくとも、ストレスを発散したくとも、ボクらは法規を超えた速度で走ることは許されない。
そしてスーパーカーメーカーもそれをよくわかっているから、ゆっくり走っていても「非日常」を体感できるようになっている。
「ドライブモード」はその一つの例だが、よりスポーティーなモードを選ぶとエキゾーストノートが大きくなったり、アクセルを戻したときにバブリング(バリバリというあの音だ)が発生したり、シフトダウン時に派手にブリッピングが入ったりする。
いずれもまったく「無駄」なものだし、そのため、ファミリーカーにはこういったものは備わっていない。
だが、いまボクが乗っているのはスーパーカーである。 実用本位、つまり「日常性」を重視して作られたクルマではない。日常を忘れるため、非日常性を体感するために運転するクルマである。
だから、そういったクルマにこそ「こういった」無駄さが必要なのだ。
その意味では、「無駄のないスポーツカー」はスーパーカーではない、とボクは考えている。 それは単なる「スポーツカー」でしかない。 スーパーカーとは、無駄を持つクルマのことを指すものだ。
かつて、フェラーリの前CEO、ルカ・ディ・モンテゼーモロ氏はこう言った。
「フェラーリのクルマとは、手が届かない美女のようなものだ」、と。
ボクはこの表現をとても気に入っているし、そのとおりだと思う。そしてボクが求めているのは、まさに「美女と過ごす非日常」なのだ。
[ライター・撮影/JUN MASUDA]