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更新2018.01.14
お金持ちでもスーパーカーを買わないのはなぜ?そこには2つの理由があった
JUN MASUDA
それは「ボクがガヤルドを購入した直後に、複数の知人が同じようにランボルギーニやフェラーリをたて続けに購入した」ことだ。
なぜ彼らは今までスーパーカーを購入しようとしなかったのか
ボクは、彼らとの付き合いを通じ、彼らが「スーパーカーを購入する資金」を充分以上に保有していることは知っていた。
だから、驚いたのは「購入したこと」そのものではなく、「購入した時期」だった。
なぜ「今」なのか?
驚いたボクは、知人たちにその理由を聞いてみた。
すると、彼らの答えはいずれも「ボク(筆者)がランボルギーニ・ガヤルドを買ったのを見て”自分もスーパーカーを買っても良いのだと感じた”」というものだった。
さらにその理由を掘り下げてみると、大きく分けると以下の2つに分類されることもわかってきた。
1.スーパーカーは自分が乗るには「行きすぎた」存在だと考えていた
2.スーパーカーを購入すると世間から非難されるのではないかと考えていた
スーパーカーは手の届かない存在だと考える人が多い
まずは一つ目の理由「スーパーカーは自分が乗るには「行きすぎた」存在だと考えていた」ということについて。
彼らは充分にお金を持っている。
現に、彼らは3300万円を超えるメルセデスAMG S65や、2000万円のメルセデスG63、2500万円のベントレー・コンチネンタル、3200万円のロールスロイス・ゴーストに乗っていた。
そして、それらのほかにもスポーツカーやミニバン、ワゴンといった「普段用」や「家族用」のクルマも、一台のみならず数台同時に保有している。
つまり彼らにとって「スーパーカーを購入する」ことは、金銭的側面から見ると(ちっとも)難しくはない、と考えられる。
同様に、保管場所についても問題はないはずだ。
では、なぜ彼らは今までスーパーカーを買わなかったのだろう?
その理由はこうだ。
「スーパーカーは、自分が買ってはいけない雲上の、神聖なる存在だと考えていた」。
これは「買うことができるお金を持っていても、”触れてはならない”聖域のようだと感じていたため、購入を考えることすらしなかった」ということになる。
スーパーカーは彼らにとって(ボクにとってもそうだが)憧れの存在であり、「憧れが憧れのまま」終わろうとしていた、とも考えられる。
フェラーリの前会長、ルカ・ディ・モンテゼーモロ氏がフェラーリをこう例えたことがある。
「フェラーリは手の届かない美女のような存在である」と。
ボクはこの言葉の意味をよく理解できる。
フェラーリは、お高くとまった美女であるべきで、気軽に声をかけることができるような「その辺にいるお姉さん」であってはならない。断じて、だ。
彼ら(前出の、ボクの知人たちだ)にとっても同じく、スーパーカーは「手の届かない美女」であり、自分には無縁で、手に入れようとすると手痛いしっぺ返しをくらう存在なのだ、と考えていたのかもしれない。
そのため、彼らは美女を手に入れようとは考えず「眺めて」いただけであったのだろう、とボクは推測する。
だが、そういった彼らの前に、無謀にも美女に手を伸ばし、手に入れてしまった男が現れた。
そう、ボクである。
そういったボクを見て、彼らはこう考えたはずだ。
「アイツが手に入れることができたのであれば、もしかして話しかけても返事すらしてもらえないと考えていた美女は、じつは気さくなお姉さんだったのではないか。アイツにできて自分にできないはずはない」。
そして彼らは次々にスーパーカーを手に入れた。
身分不相応だと考えていた雲上の存在が、実は手の届く、手を伸ばしても良い存在だということに気づいた、ということになる。
こう考えると、スーパーカーは実に不思議な存在である。
スーパーカーよりも高価なクルマはたくさんあるし、実際に多く路上を走っている。
そして、そういったクルマに乗る人でも「スーパーカーは自分が買ってもいい乗り物ではない」と考えている場合がある、ということだ。
それを買えるお金を持った人たちに対してですら、スーパーカーは心理的な障壁を構築し、購入をためらわせたりするのである。
日本ではスーパーカーに乗ること=悪だと捉えられる可能性がある
もうひとつ、彼らお金持ちがスーパーカーを購入しなかった理由がある。
それは「周囲からの批判や”やっかみ”」だ。
これを気にする人たちは、スーパーカー購入を現実的に考えたことがあるはずだ。
その意味では上の例とは異なり、「美女に手を出そうとした」ことがある人たちだろう。
しかし、モロモロ検討した結果、周囲からの反応を気にして購入を断念した人たちでもある。
世の中は、他人の幸運を喜ぶ人たちばかりではない。
商売をしている人がスーパーカーを購入すると、周囲はどう思うだろう?
「儲けすぎ」と考えるかもしれない。
そして日本ではお金儲けについて、あまり良いイメージがない。
だから「スーパーカーを購入」→「儲けている」→「なんか悪いことをしているんじゃないか」という乱暴な三段論法が成り立つのが悲しいかな、世間の一般的な反応だ。
だが、そういった世間の反応も、やや変わってきているようだ。
ホリエモンをはじめ、「巨額」を爽やかに稼ぐ起業家が出てきたこともあるし、そういった起業家たちに憧れを抱くものや支持者も出てきた。
「セレブ」がもてはやされ、おおっぴらに浪費する人を見ることに抵抗が少なくなってきたという風潮もあるだろう。
ボクがランボルギーニ・ガヤルドを購入したのもそういった時期であり、そして周囲から批判的な意見が出たことはなかった。
当時からボクはブログを開設していたのだが、コメント欄に歓迎的な意見を多く頂いたことを覚えている。
そういった「歓迎ムード」を見て、彼らは「スーパーカーを購入することはもはや悪ではない」と思ったのかもしれない。
やはり彼らはその後、スーパーカーを購入し、多くの人から祝福されている。
彼らはその後どうなったか?
非常におこがましいとは考えるが、ボクがなんらかの「スーパーカー購入における心理的障壁」を取り除く役割を果たしたのであれば、これに勝る喜びはない。
その後、彼らはどうなったのだろう。
彼らの多くとは、今でも付き合いがある。
そして、ぼくはときどき彼らに聞いてみる。
「スーパーカーの購入をためらっていたときのような懸念は現実になったか?」と。
スーパーカーは手に入れてもやはり「ツンとした美女」であり、付き合うのが難しかったのだろうか?
スーパーカーを購入することで、周囲からの悪評に悩まされたのだろうか?
答えは、一様に「ノー」である。
彼らの心配は杞憂に終わり、彼らはスーパーカーとの蜜月を楽しんでいる。
中には、スーパーカーをとんでもなく早いペースで買い替えて「限定モデル」までたどり着いたツワモノもいるし、スーパーカーを「増車」した人もいる。
そして彼らが同じように言うのは「もっと早くスーパーカーを買えばよかった」ということだ。
そしてボクもこう思う。
スーパーカーを買わずに後悔することはあっても、買って後悔することはない。
[ライター・撮影/JUN MASUDA]