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更新2018.06.06
今年の申込みは500台以上!?春の風物詩「第29回 トヨタ博物館クラシックカーフェスティバル」
鈴木 修一郎
トヨタ博物館クラシックカーフェスティバル
一応筆者も、セリカLBでエントリーを申し込んでいたのですが、聞くところによると今年は500台以上の申し込みがあったとか。トヨタ博物館のルールで今年は新たに1988年製造車がエントリーの権利を得る事になり、そうすると2年連続でエントリーが通るということはほぼ不可能なようで、今年は一般見学者として行くことになりました。その代わり、昨年筆者のセリカに同乗して撮影協力をしてくれた「MS50クラウンオーナーズクラブ」の赤倉さんのMS50型クラウンと、以前CLカーズで紹介した国産クラシックカー専門のリプロ部品を販売している「THサービス」の平野さんのお父様がマスタングマッハ1でエントリーが通り、前夜祭では遠方の友人と久しぶりに話をしたり、THサービスの今後の展開などについて聞くこともできました。
やはりクラシックカーイベントは駐車場もイベント会場
当初はMS50クラウンかマスタングで早朝の市内パレードに同行するつもりでいたものの、前日は深夜までたまっていた原稿と格闘していたので、パレードの模様を楽しみにしていた読者の皆様には申し訳ありませんが、今回はモリコロパーク内に車両の展示が終わる10時過ぎを狙って会場に向かう事にしました。
トヨタ博物館のイベントは今まで大体、自分のクルマでエントリーするかエントリーしている友人知人のクルマに同乗という形で行くことが多く、来場者の駐車場にとめてあるクルマを意識して見るという事はしていなかったのですが、やっぱりクラシックカーイベントは駐車場も含めてイベント会場です。
▲初夏の日差しに眩しいオレンジ色のTE27型カローラレビン
▲なんと、遠路はるばる世田谷からヨタハチで見学に来た方も
▲こちらは駐車スペースを探すホンダS800クーペ
展示会場となる芝生広場への通路にはイベント会場への案内看板が立っていたのですが、この看板の写真を撮っていると周囲から「へぇ~、今日はクラシックカーの展示をしてるんだ」という声が聞こえてきました。イベントがあることを知らずに偶然通りかかった人がクラシックカーに興味を持ってもらえるというのは、理屈抜きに嬉しい物です。
今回真っ先に目についたエントリー車両は…
▲昭和43年型トヨペットコロナ
こちらが今回、真っ先に目についたエントリー車両です。実はこのコロナ、かつては東海地区のクラシックカーイベントには必ず出ていた名物車両で「息子が生まれたんだからこれで新車を買え」と当時のオーナーのお父様が全額購入費用を出してくれたことで、これは一生大事にしなければならないとその後、買い替える事もなく乗り続けたというエピソードがあり、何度もクラシックカー専門誌にも取り上げられたこともあるのですが、この10年ほどはイベントでも見なくなりました。時折、「あのコロナはどうなったのだろう」と思っていたのですが、現在ではその息子さんがオーナーを引き継いでいるとのことでした。
昨年、クラシックカーナゴヤのナゴヤクラシックカーミーティングのDMが来た事がきっかけで、今度は息子さんがクラシックカーイベントにエントリーするようになったのですが、今でも、このクルマの事を覚えている人が多いそうで、このクルマの事を覚えてくれる人が沢山いる事を喜んでおられました。
名古屋5ナンバーも、新車当時から一切レストアしていないオリジナル塗装のボディもすべて昔のままでした。今度は息子さんが全国のイベントにこのお爺様が買ってくれたクルマでエントリーすることになるのでしょう。
昭和41年型ダットサンブルーバード1300SS
イタリアの有名カロッツェリア「ピニンファリーナ」がデザインを手掛けるものの尻下がりのデザインは国内では評判が悪く、マイナーチェンジの際、デザインを手直しする際のテコ入れに追加されたのがスポーツモデル「SS(スポーツセダン)」。
1960年代の国産車の中では失敗作とされる二代目ブルーバード(P410系)も実際のところ、海外市場では低価格と高品質が認められた事で輸出は好調でこのモデルから北米市場の黒字化に成功。この当時、アメリカから迫られていた日本の自動車市場の輸入制限の撤廃で、危機的状況に陥ると危惧されていた日本の自動車産業は日本の外貨獲得の手段となります。
余談ですが、410系ブルーバードは人気アニメ「ルパン三世」の中で主人公ルパン三世の宿敵「銭形警部」のパトカーやプライベートカーとして登場する事から一部では「銭ブル」と呼ぶ人も居るようです。そういえば、この春から新シリーズとして始まった「ルパン三世パート5」でも、さっそく銭形警部の愛車として登場していましたね。
昭和27年型ダットサンスポーツDC3
公式には、国産車初のスポーツカーと言われているクルマです。戦後はイギリス車の影響を受けたダットサン(日産)ですが、MGを範にとったのでしょうか。基本設計は戦前型を踏襲した暫定戦後型ですが、まだ戦後の混乱期も続く中、早くもスポーツカーの市場の可能性を模索した日産には先見の明があったのでしょう。後にこのクルマがフェアレディZのルーツとなったのはいうまでもありません。
このあと20年もすると、今なお世界中のカーガイを魅了する流麗な「Z Car」に昇華します。
昭和47年型日産フェアレディZ432R
そのS30型Zですが、総生産台数430ほどと言われているS20型エンジン搭載モデルの「432」が参加していたのですが、オレンジの塗装色に防眩色の黒ボンネット、もしやと思ったら…
センターコンソールのイグニッションキースイッチ!432の中でも総販売台数30台ほどと言われている幻のレース専用モデル「432R」でした。
当初はZ432のコンペティションモデルとして計画された432Rですが、北米のトルク型のクルーズ性能に主眼を置いた日産開発のS30型シャシーとレース前提で高回転型なプリンス開発のS20型エンジンの 相性が悪く、振動でトランスミッションにクラックが入った、ピーキーすぎて扱いづらい一方、輸出仕様の2.4Lモデルが国内に導入されると、レースシーンでも野太いトルクに物を言わす大排気量エンジンの240Zにとってかわられ、本来「競技用目的でしか販売しない」という事になっていた432Rが在庫処分目的で一般ユーザーに販売されたとされています。
昭和54年トヨタコロナマークⅡグランデ2600・2ドアHT
X40型、いわゆる「ブタ目」の後期型から、ブランド名が「トヨペット」から「トヨタ」に統合され、現在ではディーラー名に残るのみとなります。筆者にとっては亡父が乗っていた思い出深いX30/40系マークⅡですが、実はX30/40はマークⅡ史上初の3ナンバーモデルである4M型2.6Lエンジン搭載車が設定されます。
3ナンバーの税金が禁止税並みに高かった時代、あえてクラウンを買わずにマークⅡの2.6Lを買う人というのはよほど斜に構えていた人に思えるかもしれませんが…
実は、MX40系マークⅡグランデは4輪ディスクブレーキにトヨタ2000GT以来の4輪独立サスペンションを採用。クラウンですらリジットサスペンションを採用している中、2.6Lの大排気量エンジンで4独サスのロードホールディングを堪能できる数少ない国産車で、今でいうレクサスのポジションにつながるモデルだったのかもしれません。
昭和54年日産スカイライン2000GT-ES
実は、筆者の知人のお父様が新車購入して現在もワンオーナーで所有している「ジャパンスカイライン」なのですが、遠路はるばる札幌からのエントリーだけならまだしも前週の門司港ネオクラにもエントリーしてそのまま一週間かけて愛知県まで自走という、超ロングドライブをこなしてきたとのこと(!)さすが、新車当時から連れ添った愛車だけに40年近く前の車といえどもコンディションも万全で1000km以上のロングドライブもものともしないのでしょう。当時の北海道の販売車両としては珍しくエアコンを装備しているとのことで、この日の突然の暑さには重宝したことでしょう。
C210型(いわゆるジャパン)スカイラインとしては丸目4灯の後期となるそうですが、同じ丸目でもトリムなどの細部がまったく違うとのことで、他のスカイラインと違い長年、ヴィンテージとしては注目されなかったため部品の流通量も少なく逆に昨今のクラシックカーバブルで部品も車両も暴騰してしまったと漏らしていました。
昭和63年トヨタセリカGT-FOUR
1980年代、国産車の駆動方式がFRからスペースユーティリティやコンポーネンツのモジュール化に優れるFFへの移行が進むなか、セリカとカリーナもコロナのプラットフォームに統合される形でFFとなり旧型のA60からT160というフレームナンバーが与えられます。(旧来セリカの上級グレードだったXXおよびスープラが独立した車種となり、A70というフレームナンバーを継続する事になります。)FFに移行したことでセリカのターボエンジンのハイエンドモデルは4WD化され、WRCでは王者ランチアを追い詰める事になります。また、このST165型GT-FOURといえば映画「私をスキーに連れてって」の劇用車としてご記憶の方も多いのではないでしょうか。
1912年キャデラックモデルサーティー
今回のトヨタ博物館車両の展示テーマは「世界初」トヨタ博物館からは以前CLでキャデラックの記事でも取り上げた、世界初の電気式スターターを採用したとされるモデルサーティーが展示されていました。
▲ラッパ型ホーンの左側のエンジンルーム内の電気配線が出ている装置がスターターモーター
キャデラックが電気式スターターを採用するに至ったのは、キャデラック創業者のヘンリーリーランドの友人バイロン・カーターが手動クランクハンドルによるエンジン始動に失敗して、逆回転したハンドルで顎の骨を折る重傷を負ったのが元で死亡し、友人を失った悲しみから、安全にエンジンを始動できるシステムを模索するに至ったと言われています。当時のシステムは6Vのバッテリーを4個搭載し、エンジン始動時は24Vで始動、エンジン始動後はバッテリー配線を切り替え12Vで電気式ライトを点灯する仕組みだそうです。
1959年ボルボPV544
ボルボカーズの日本法人の木村社長がトヨタ博物館にはボルボの収蔵車両がないことを知ったのがきっかけで、昨年末本国のボルボ本社から寄贈を受けたというニュースをご記憶の方もおられるのではないでしょうか。ボルボがはじめて製造したトラックのうち2台が衝突事故を起こしたことが「衝突安全」という概念をもつきっかけになったといわれています。
このPV544モデルこそ世界初の「三点支持シートベルト」を装備し、ボルボは三点支持シートベルトの特許を取得しますが、自社の利益より安全な自動車の普及を望み特許を開放、何百万人ものドライバーの人命を救ったといわれています。また同年はダイムラー・ベンツが「衝撃吸収ボディ」で特許を取得、アメリカでは米国道路安全保険協会(IIHS)が設立され第三者機関による自動車の衝突安全試験の実施が始まるなど、自動車の安全技術のターニングポイントとなった年かもしれません。
1938年メルセデスベンツ170Vロードスター
今回の筆者のお気に入りはW136型メルセデスのロードスター、日ごろから縦目メルセデスが欲しいと自称してますが、実は筆者にとって本当のドリームマシーンは戦前型のW136型170Vリムジーネ(4ドアセダン)なのですが、まさにその戦前型W136のロードスターモデルが今回のCCFに参加している事に取材を忘れて狂喜しました。
170Vは中型・大型車がメインだった当時のダイムラー・ベンツのボトムレンジを担うエントリーモデルでその名の通りサイドバルブの1.7L38馬力エンジンを搭載した小型車です。今でいうCクラスに相当するモデルでしょう。しかし、最廉価モデルながら鋼管フレームによるX型バックボーンフレームシャシー、フルシンクロの4速トランスミッション、サスペンションは量産車初の4輪独立サスを採用するなど、革新的なメカニズムを採用しています。
戦時体制の1943年から1945年を除いて1936年から1955年まで製造されたロングセラーで、戦後モデルになるとウェスタン自動車(ヤナセ)によって日本にも正規輸入されています。
今年も大盛況の新明工業「クラシックカーよろず相談コーナー」
トヨタ博物館クラシックカーフェスティバルと言えば同博物館の所蔵車両のレストア、整備を手掛けている新明工業の「クラシックカーよろず相談コーナー」新明工業の放出品のお宝パーツ目当てに今年も大盛況でした。
新明工業の名物メカニックの石川實顧問は「このイベントに一回目から必ず来てるのも、もう俺とお前さんくらいだな(笑)」が毎年の挨拶です。ふと、オーナーが修復を断念したと報じられた例の倒木の下敷きになったトヨタ2000GTをどうにか新明工業で直せないのかと聞いてみると「今日は朝から会う人会う人みんなその話ばっかだよ(苦笑)来月、俺が現車見てくるよ」とのこと、石川さんとしては直す算段でいるようです。
とはいえ新明工業でも、部品の枯渇は深刻なようで、先日取材したレストアパーツ.comのフライヤーを渡したところ新明工業でもレストパーツ.comは把握していなかったようで「すごいな、安いし、なんでもあるじゃないか」と感心していたのが印象的でした。こういう形で国産クラシックカーの部品供給の連携が取れていく事を願いたいものです。
さて、来年は記念すべき30回、第一回のイベントでオーナーになることを夢見ていたスバル360でエントリーできるようレストアを頑張ろうと思います。
[ライター・カメラ/鈴木修一郎]