ライフスタイル
更新2017.11.07
クルマを本当に知るには、ネットでスペックを調べただけでは分からない。情報収集の「無駄」について考える
JUN MASUDA
そのテーマとは、ズバリ「無駄」だ。
ネットで検索すれば欲しい情報が欲しいだけ手に入る
現代は情報社会である。
欲しい情報は検索すればすぐ手に入るし、そもそも探しにいかなくとも、ニュースアプリやメルマガでどんどん配信されてくる。
クルマのスペックだって、検索すればすぐに出てくるし、記事を書くための調査にかかる時間が大きく短縮され、なんとも便利な世の中になった。
つまり、知識を得るのが容易になったといっていい。
だが、昔はこうではなかった。
クルマのスペックを知ろうとすると、そもそもカタログか雑誌がないとわからない。
そして、カタログや雑誌が手元にないと調べようもない。
だからボクは、クルマのカタログを収集したり、雑誌の記事をスクラップする習慣が身についていた。
なにもボクはここで昔を懐かしんでいるわけではない。
むしろボクは情報化社会の恩恵を受ける立場であり、もっと情報の密度が濃く、スピードも速くなってほしい、とすら考えている。
物ごとを知る「過程」と「結果」について考える
そこでボクはふと思った。
最近はあまり雑誌はもちろん、小説を読むことがなくなったな、と。
かつて、ボクの情報源は雑誌や小説が主なものだった。
ただ、雑誌や小説は何か特定の事象を知りたいということを目的に読むものではない。
最初から「へえー」とか「ふーん」とか「こんなものもあるんだ」と思いながら見るのが雑誌であり、その情景を思い浮かべながら読むのが小説だ。
そうやって読み進んでゆくうちに蓄えられたものがボクの知識だったわけだ。
たとえばクルマ雑誌でホンダNSX特集(昔の話なので初代だ)が組まれていたとする。
雑誌に掲載される情報はスペックだけではない。
開発担当者へのインタビューや、そもそも開発にいたった背景、テスターによるインプレッション、ほかのクルマとの比較があったりするのが常だ。
ぼくはそういった記事を読み、ホンダNSXがなにを目的に、どういった人びとを対象に、そしてどういったクルマをライバルとして開発され発売に至ったのかを知ることになる。
たとえば、NSXホンダにとってはじめての超高速で走行するクルマであったため、最高速付近で走行すると「風圧でワイパーが押さえつけられて動かない」ことを発見した、という記載はいまでも記憶に残るところだ。
それまでのホンダ車のワイパーは時速100km/hでパカパカ動けばよかったわけだ。もちろんNSXは時速100km/h以上で走ることもありりうる。
NSXの使用環境を考えると、時速300km/hでも動くワイパーが必要で、そのためにはワイパーアームの空力性能も向上させる必要があるし、そもそもワイパーを動かすモーターのパワーも高めなくてはならない。
つまり、そこにはNSXというクルマができるまでの「物語」が記載されていた。
そして、NSXのスペックをあらわす数字は、単に物語のない「結末」だとも考えることができる。
だからボクは、ネットでスペックだけを調べて数字を知ったとしても、それはすなわちそのクルマを知ったこととイコールではない、と認識している。
そのクルマを本当に知るには、その「物語」を理解しなければならない、と考えているからだ。
物語が知識に彩りを与える
そういった「物語(過程だと置きかえてもいい)」は非常に重要だ。
それを理解しているかどうかで、その人の話に厚みや説得力がもたらされる場合もある。
だが、ボクらは忙しい。
NSXのスペックを知りたいとき、そのスペックが記載されている「かもしれない(読んでみるまでわからない)」雑誌や書籍を、1ページ目から順に読んでゆくことはできない。
だからネットでさっと検索して欲しい情報”だけ”を仕入れることになるのだが、果たしてそれで良いのだろうか、というのが今日ぼくが投げかけようとしている問題だ。
物語(過程)を飛ばしてたどり着いた結末に意味はあるのか、ということだ。
もちろん商業的には「その意味はある」と考えている。
より短い時間で、より多くの記事を作成することができるからだ。
それでもボクは考える。
このまま効率を重視し、結末だけを求めていていいのだろうか。
ボクはいま、幸いにもライターという仕事をいただいているが、それはおそらくいままで蓄えた「無駄な知識」のおかげだと考えている。
NSXのスペック、そのわずか数行にわたる数字にたどり着くまでに読んだ「数十ページ(もしかすると数百ページか)」が今のボクを支えているのだろう。
そう考えると、「過程」というのは結末よりも重要な意味を持つのかもしれない。
誰もがまっさきに結末を求めるが、その過程はみな「飛ばしてしまいたい」と考えているから。
そして結末に至るまでの過程が、そのときは無駄に思えても、あとでこうやって何らかの役に立つからだ、とボクは考えている。
ボクが記事で伝えようとしているのは「ニュース」ではない。
つまり単なる事実や数字ではない、ということだ。
ニュースは効率よく情報を伝えるために無駄な情報は省かれているが、こういった記事では無駄こそがむしろ重要な情報ではないか、とも考えている。
自動車にも無駄があっていい
「無駄」はクルマにおいても必要だ、とボクは考えている。
無駄のないクルマはシンプルで美しいかもしれないが、そこに物語を感じられない可能性があるからだ。
たとえば、ランボルギーニ・アヴェンタドールやウラカンのエンジンスターターボタンには「フラップ」が備わる。
このフラップは機能上は必要がない。
誤作動防止という意味合いはあるかもしれないが、このクルマのドライバーの性質を考えると、それも必要はないだろう。
それでもランボルギーニはスターターボタンにフラップを装着した。
これは「レヴェントン」からに端を発するミリタリー調デザインを受け継いでいるのだと思われるが、その後ランボルギーニは「ヴェネーノ・ロードスター」の発表を空母の上で行ったり、イタリア空軍をモチーフにした「ウラカン・アヴィオ」をリリースしている。
ランボルギーニのエクストリームなデザインは「ミリタリー」と密接な関係にあるという視覚的表現であるとともに、まるで戦闘機のミサイル発射ボタンのように「フラップを開けてボタンを押す」という行為そのものに価値を見出しているのではないだろうか。
実際のところ、この「フラップを開けてボタンを押し、エンジンをスタートさせる」という行為はおおいに気分を盛り上げてくれる。
そのほかにもジャガーの採用する「心臓の鼓動とおなじペースで点滅するスタートボタンのイルミネーション」、レンジローバーの採用する「エンジンスタートともにせり上がってくるシフトノブ」「メルセデス・ベンツのアンビエントランプ」「マクラーレン720Sのウエルカム・シークエンス」「レクサスのエンジン始動/起動時に流れる音楽」「ロールスロイスの星空ルーフ」、そして今では一般的になった「始動時にいったん端まで振り切れるメーター指針」など、すべて無駄といえば無駄だ。
しかしボクらはそういった「無駄」に心奪われ、心酔する。
なぜなら、すでに自動車自体が無駄になりつつあるこの時代に、あえてその自動車を愛するクルマ人なのだから。
余談にはなるが、どこかへ行こうとするとき、まっすぐ目的地に向かわずにいつもと違う道にランダムに入ってみたりすると、良さげなレストランやカフェを見つけることがある。
寄り道は偶然だが、不思議なことに、そういったお店を見つけるのは必然ではないかと感じることもある。
同様に、特定の情報を求めて書籍をむさぼり読む段階で得た、「本来求めていたものではない知識」もまた必然なのかもしれない。
なにかと効率化が求められ、時間という波に流されそうになる現代ではあるが、こういった世の中だからこそ、無駄を愛する余裕を身につけたい、と考える今日このごろだ。
[ライター・撮影/JUN MASUDA]