ライフスタイル
更新2017.07.31
クルマでスキーに行くのが、最高にカッコ良かったあの頃
ryoshr
「凍ってるね」と、ドライバーシートに座ったままドアをあけ、地面に積もる雪をさっとなでながら言ったことのある読者は手を上げなさい。
そう、ちょうど30年前、1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」の有名なシーンで原田貴和子さんと髙橋ひとみさんがやってたことだ。
当時のクルマ好きの若者たちは、原田知世さんみたいな彼女が欲しい、なんてことよりも、4WDのセリカに出始めのスタッドレスタイヤを装着していたことがうらやましくてしかたなかったはず。高速のPAでチェーンを脱着しなくてもいいし、交換後も乗り心地も損なわない夢のようなタイヤだった。今では冬場の定番アイテムとして一般化しているが、当時はかなり贅沢なものだった。
スキーに行くといえば、クルマを何台か連ねて出掛けたものだが、当時は携帯電話がなかった。そこで「私をスキーに連れてって」ではパーソナル無線をつかっていたようだが、一般ピープルはシガーライターソケットに挿すFMトランスミッター機能付きマイクを使っていたように思う。近くにいるクルマでFMを受信すると、一台前の車内の会話が聞こえ、二台とも装着すれば、一応会話ができるなんていうデバイスがあって、数台で連れ立ってスキーに行く時には重宝したのを覚えている。
当時のスキー場では、シャレた音楽を流すのが大変だったのか、開局したてのJ-Waveを流しているところが多かったように記憶している。いい感じに洋楽がかかるなか、首都高の交通情報も頻繁にやっていて、リフト小屋のお父さんが「いんやあ、今日もハコザキってとこは混んでんだなあ」なんて言ってたりしていたらしい。
そして、当時は高速道路の整備が現代ほど進んでいなかった。関越道はまだ首都高とつながっていないために練馬から乗ったり、東北道も下道で浦和まで行かないといけない時代もあった。スキーシーズンの週末の夜中は、関越道練馬インターの近くの環八が渋滞していたものだ。また、関越トンネルが対面通行だった時代で、事故があると通行止めになってしまい、チェーンを巻いて雪の三国峠を泣きながら越えたり、手前のスキー場へ目的地を変更することもあった。
また、クルマで来るお客さんが想定を超えたらしく、到着時間が遅れると、臨時の増設駐車場にまわされることがあった。臨時の駐車場までの道は除雪が入らないことがあり、ここへ行くためにわざわざチェーンの装着が必要になったりして、本当につらい修行をしていたと記憶している。
ある日、「関西の女の子をナンパしよう」という話になり、関西からのバスがたくさんくると噂の白馬へ行くことになった。当時は長野自動車道が開通しておらず、中央道の岡谷から延々と下道を走って行くしかなかったのだ。ようやく到着して、さっそくリフトでナンパしようとしたら、「いややわ、このヒト『どこから来たの?』やてー」と東京弁を早速ディスられるという洗礼を受けたりもした。
スタッドレスタイヤもABSも携帯電話も高速道路もなかった時代…、振り返れば相当な苦労をしてスキーに行っていたはずなのだ。いろいろと楽ちんになった今、なぜおっさんたちはスキーに行かなくなってしまったのだろうか。そして若者達はさらに安いバスツアーを選択して不幸な事故に遭っているのだろうか。自分のクルマで運転して、スキー場へ行くという「ヨロコビ」が失われてしまったのかもしれない。大学生の娘には、もしバスでスキーに行くのなら、ちゃんと調べるようにとアドバイスするくらいしかできない。カレシのクルマとどちらが安全なのかというとビミョウなところではあるが。(気持ちはお察し頂いて)
ちなみに、筆者は空冷ワーゲンに乗っていた頃、一度大雪の日に運転したことがあった。いつもは「RR最高!」的な記事を書いているのだが、その日ばかりはエンジンが前にないことを嘆いた。なぜかというと、重たい雪の中で空冷ワーゲンを走らせると、フロントタイヤによって巻き上げた雪がフェンダーの内側に張り付き、サスペンションやステアリング関連のパーツにも付着して動作がとても悪くなる。その点、フロントにエンジンがあれば、ある程度はエンジンの熱が届くので付着した雪も溶けてくれるはずだが、エンジンは遠くリアタイヤの後ろにあるために伝わってこない。よって、フロントまわり全体が雪で覆われることになり、だんだんステアリングが切れなくなる。そして交差点ではステアリングではなくアクセルコントロールで曲がるのも面倒だった。最近のモデルでいうと、熱源を持たない日産リーフでは、このあたりはしっかり対策されているのだろうかと、少しだけ気になったりして。
話を戻すと、昔よりもだいぶ楽に行けるようになったスキーだが、自分で行くのはどうにも億劫。というわけで、「私をスキーに連れてって」なのだ。
[ライター/ryoshr]
そう、ちょうど30年前、1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」の有名なシーンで原田貴和子さんと髙橋ひとみさんがやってたことだ。
当時のクルマ好きの若者たちは、原田知世さんみたいな彼女が欲しい、なんてことよりも、4WDのセリカに出始めのスタッドレスタイヤを装着していたことがうらやましくてしかたなかったはず。高速のPAでチェーンを脱着しなくてもいいし、交換後も乗り心地も損なわない夢のようなタイヤだった。今では冬場の定番アイテムとして一般化しているが、当時はかなり贅沢なものだった。
スキーに行くといえば、クルマを何台か連ねて出掛けたものだが、当時は携帯電話がなかった。そこで「私をスキーに連れてって」ではパーソナル無線をつかっていたようだが、一般ピープルはシガーライターソケットに挿すFMトランスミッター機能付きマイクを使っていたように思う。近くにいるクルマでFMを受信すると、一台前の車内の会話が聞こえ、二台とも装着すれば、一応会話ができるなんていうデバイスがあって、数台で連れ立ってスキーに行く時には重宝したのを覚えている。
当時のスキー場では、シャレた音楽を流すのが大変だったのか、開局したてのJ-Waveを流しているところが多かったように記憶している。いい感じに洋楽がかかるなか、首都高の交通情報も頻繁にやっていて、リフト小屋のお父さんが「いんやあ、今日もハコザキってとこは混んでんだなあ」なんて言ってたりしていたらしい。
そして、当時は高速道路の整備が現代ほど進んでいなかった。関越道はまだ首都高とつながっていないために練馬から乗ったり、東北道も下道で浦和まで行かないといけない時代もあった。スキーシーズンの週末の夜中は、関越道練馬インターの近くの環八が渋滞していたものだ。また、関越トンネルが対面通行だった時代で、事故があると通行止めになってしまい、チェーンを巻いて雪の三国峠を泣きながら越えたり、手前のスキー場へ目的地を変更することもあった。
また、クルマで来るお客さんが想定を超えたらしく、到着時間が遅れると、臨時の増設駐車場にまわされることがあった。臨時の駐車場までの道は除雪が入らないことがあり、ここへ行くためにわざわざチェーンの装着が必要になったりして、本当につらい修行をしていたと記憶している。
ある日、「関西の女の子をナンパしよう」という話になり、関西からのバスがたくさんくると噂の白馬へ行くことになった。当時は長野自動車道が開通しておらず、中央道の岡谷から延々と下道を走って行くしかなかったのだ。ようやく到着して、さっそくリフトでナンパしようとしたら、「いややわ、このヒト『どこから来たの?』やてー」と東京弁を早速ディスられるという洗礼を受けたりもした。
スタッドレスタイヤもABSも携帯電話も高速道路もなかった時代…、振り返れば相当な苦労をしてスキーに行っていたはずなのだ。いろいろと楽ちんになった今、なぜおっさんたちはスキーに行かなくなってしまったのだろうか。そして若者達はさらに安いバスツアーを選択して不幸な事故に遭っているのだろうか。自分のクルマで運転して、スキー場へ行くという「ヨロコビ」が失われてしまったのかもしれない。大学生の娘には、もしバスでスキーに行くのなら、ちゃんと調べるようにとアドバイスするくらいしかできない。カレシのクルマとどちらが安全なのかというとビミョウなところではあるが。(気持ちはお察し頂いて)
ちなみに、筆者は空冷ワーゲンに乗っていた頃、一度大雪の日に運転したことがあった。いつもは「RR最高!」的な記事を書いているのだが、その日ばかりはエンジンが前にないことを嘆いた。なぜかというと、重たい雪の中で空冷ワーゲンを走らせると、フロントタイヤによって巻き上げた雪がフェンダーの内側に張り付き、サスペンションやステアリング関連のパーツにも付着して動作がとても悪くなる。その点、フロントにエンジンがあれば、ある程度はエンジンの熱が届くので付着した雪も溶けてくれるはずだが、エンジンは遠くリアタイヤの後ろにあるために伝わってこない。よって、フロントまわり全体が雪で覆われることになり、だんだんステアリングが切れなくなる。そして交差点ではステアリングではなくアクセルコントロールで曲がるのも面倒だった。最近のモデルでいうと、熱源を持たない日産リーフでは、このあたりはしっかり対策されているのだろうかと、少しだけ気になったりして。
話を戻すと、昔よりもだいぶ楽に行けるようになったスキーだが、自分で行くのはどうにも億劫。というわけで、「私をスキーに連れてって」なのだ。
[ライター/ryoshr]