更新2023.11.22
輸入車に乗ることは「積極的マイノリティを受容すること」と同義かもしれない
中込 健太郎
月間最低でも5,000キロ以上、多いときは10,000キロを優に超える距離を走るようになって、改めて実感したことがあります。それは「クルマに乗ることで問われるのは社会性」だ、ということです。
自分勝手でもダメだし、受け身すぎるのもダメ。しっかりと意思表示と自己主張をしつつ、時に意に介さないことでも受け入れる。全体の流れは大事。まあ、わかっていても、今では昔の運転を振り返り、あの時こうしていればよかった、と反省することも少なくありませんが。
■初心者こそ、まず輸入車からスタートすべし
ところで、こうした道路上での社会性はクルマ選びにも影響するのではないでしょうか。またクルマ選びで養っていくこともできるのではないか。そんなふうに思うようになりました。
それでいうと「輸入車を選ぶ」ということも、実はそうした面で正当性があるのと思うのです。今回はそんなことを考えていこうと思います。
■さらに大前提として「人と違うことを自覚する」ことからはじめよう
輸入車に乗る。特に首都圏においては、街中ではそれほど珍しくはなくなりましたが、全国の実際の登録台数などを見ると、0がひとつ、いやふたつくらい少ない台数しか走っていないクルマも少なくありません。
価格帯もかつてほどの違いがなく、維持費の面でもさまざまなサポートプログラムなどが用意されています。また、トラブルが発生した場合の修理、整備体制、部品の供給ネットワークの充実も相当なものです。
購入や所有するにあたってのハードルほぼ国産車と変わらなくなった今でも、やはり舶来の自動車に乗るというのは、少数派の選択ということなのかもしれません。でも実はこの選択こそ、道路交通という「社会」での振る舞いを洗練させていく訓練としても大切な要素を既に孕んでいると思うのです。
社会性で大切なこと。それは「他人と違うということを許容し、自覚し、受け入れる」。まずはここではないでしょうか。
人間誰でも、平凡だと言っても、それ相応に個性はあります。とても奇抜なようでも、似たような人がいたりするもの。他人のことであればそういうことを許容して認めてあげること。自分のことならば、好き嫌いは別として、そうしたことを自覚して、周りからの反応には争わず受け入れる。
そういうことをしていくことで、争いを避けて、あまり居丈高になったり卑屈になったりしない。それがコミュニケーションであり、社会の中で多様な才能が様々な彩放っていくということなのではないでしょうか。
まずはここだと思うのですが、そう簡単なことでもありません。つい自分の我を通し、自分と違うものに違和感を覚え、それを露わにしたり。そうなれば争いも起きるし、雰囲気も悪くなってしまう。わかっていてもつい、ということはありますね。バランスや按配も含めて考えると、これがスマートに交わせる社会、なかなか難しいもの。
そういう意味でも、クルマに乗ることに際してまず「少数なものの中から選ぶ」ということは、勇気のいる選択になります。また、そのことで個性を発揮すると同時に、他者と違うという事実、その自覚が自然と備わり養われていくのではないでしょうか。
クルマ選びは衣服を選ぶようなもの、といわれることがありますが、姿勢を表明することにもなります。あえて輸入車から選んでみるというのは、そんな多様性を認め合うベースにもなるように感じるのです。
■「米と味噌汁を食べてから出勤」ではない人が作っているクルマに乗ってその文化に触れる
実際に輸入車に乗ってみると、街で見ていたときよりも相当に違うことが少なくありません。まあ、日本ほど高温多湿で、エアコンはじめ文化的装備を正常に動かしながら渋滞の中を走行しても故障しないもので、限りなく完璧さを求めるマーケットは少ないでしょう。
発売前から相当な時間をかけて、実に多くの項目に関しての実地耐久試験を実施していますので、海外のメーカーのクルマも信頼性はかなり向上しました。
それでも操作した感じ、デザインのテイストなどが、圧倒的に私たちと同じ生活文化で育ってきた人が作ったクルマではないなと感じさせる部分は少なくありません。手に触れるスイッチ類の素材・構造・位置・操作方法。ステアリングフィール。シートの座り心地など。あげればキリがないほど、今でも違いは多いものです。
筆者は昔から、幾度となく申し上げてきたことがあります。「輸入車を購入するということは、最も簡単にできる異文化交流の一つである」と。納豆をご飯に載せて、お味噌汁と漬物があって、そういう暮らしを長いことベースにしてきた国民性とは違うと申しましょうか。
例えば、シトロエンを見ると顕著に感じます。もしかしたら不便でしょうか?多少そういうこともあるかもしれませんが、それもまた愛おしく惹かれてしまうのです。
「こういうものなのね」に触れることができるのは「やはりああいうクルマを手に入れる大きな理由」なのではないでしょうか。
だからマイカーとしてチョイスして迎え入れたこともあります。それはある程度の不便さを覚悟しても「向き合う」ことに元々輸入車を買うということの本質はあったのではと思うのです。これこそ、前でも述べた許容であり尊重ですよね。
このクルマとの暮らしは大変かもしれない。けれど、そこに自ら飛び込んでいく。こういう人は物事に対して、忍耐強く鷹揚になるでしょう。
「大変」とは「大きく変わる」と書きますが、大変な目に遭った人は、大変なことから逃げて回っている人では到底体験できないことを体験し、人生をより豊かにすることができるのです。被害・災難と捉えるか、得難い経験と捉えるかは大きく変わってくると思うのです。
■権利を主張する前にまずは左車線に戻ろう
そうした「のうのうとしていられない度合いが(比較的)高い」輸入車に乗ることで、運転も可そのものにも違いが出ると感じます。
週末の高速道路を走っていると、一番右側の追越車線がもっとも通行量が多く、また巡航速度が遅い、ということがあります。
たくさん走っているから車間距離が短くなり、路面の傾斜が車速に反映してすぐに渋滞に成長し、また車間が足りないことで玉突き衝突が発生したりする。路肩から遠い右車線での事故は処理にも時間がかかり、渋滞がひどく解消されにくくなる。週末の渋滞の少なくとも7割くらいは人災だと思っています。
でも多分、あそこ走っているクルマの人たちの多くは、自分のことを棚に上げて「追い抜かないなら左に戻ればいいのに」と思っているに違いありません。そういうことは他人に期待するのではなく、自分がまず左に戻るべきなのです。そうしたら一台分車間距離が空き、事故リスクもそれだけ下がります。
事故が起こらなければ渋滞も少なくなるでしょう。こうしたことも輸入車だと割と自分のこととして動けるような気がします。
いろいろな理由が考えられますが、まず「走っていても止まっているように静粛に」ということはなく、適切に騒がしくなって速度感覚が掴みやすい傾向が、輸入車の方が強いと感じるのが一点。あとは、流石にこれは旧車に限ってかもしれませんが、完全な趣味車でいじっていて特性がわかっていたりすれば、ノロノロになってオーバーヒートになるのは嫌だ、オーバーヒートになってもすぐに路肩に寄れるように、と危機管理の観点で路肩に近い左車線を走ろうという人もいるかもしれません(ちなみにこれは本来、こうした選択の話ではなく、追い越しが終わったら左車線に戻るべき、が交通法規上の原則ですので、戻らなければならないことなのですが)。
「アウトバーン仕込み」ドイツ車の評価ではそんな言葉もよく目にします。しかしそれは、高速度域でものともしない、というばかりではなく、速度感覚など適切な警告をドライバーにインフォメーションとして伝えてくるという面もあると思うのです。
時速200キロで安定して走行することもできるが、それは時速30キロとは異なる危険もありうることを知っているということだと思います。
「この瞬間、横の車線のクルマがこっちに寄ってきたらどうしよう」「前のクルマが急にブレーキを踏んでも、止まれるように。むしろ車間はたっぷり目で行こう」「バイクがすり抜けてくるかもしれないから注意」交通法規でどちらの責任だ、の前に事故が起こらないように何ができるかを考えるべきだし、万が一起きたら被害最小限になるように、を務めていくべきだと思うのです。
■まとめ:道路上やクルマ選びにおいても「積極的にマイノリティ」であれ!
こう考えると、マインドとして、道路上ではできるだけ「少数派」でいることで、周りに依存しないで、色んなことに気づき、危険予知ができ自制もできるようになる。少なくともそういう方向性の思考が働きやすくなるようになるのではないでしょうか。
その点でいえば、何も特殊なクルマでもなくとも、輸入車に乗って少数派の人でいる。その中で安全な走行を反省し見つめる。
これは、自分の権利を主張し他車への不平不満を抱えながら運転する(煽り煽られというのも含めて)よりも、さっと空いている方に移って道路上をできるだけ事故の起こりにくい状況にしておけるドライバーになる方が、ずっと大事なことではないのではないでしょうか。
そもそも、「ぶつけたらこのヘッドライトのユニットもう部品出ないのよね」なんていうことも珍しくありません。ぶつけたくないから交通量の少ない走行車線にとどまろう。交通法規の原則に沿ってはいないかもしれませんが、こういう「愛車へのココロ」がより強く持てるのであれば、それだけでもドライバーの意識づけとしてはアリなのではないかと思ってしまうわけです。
もちろん旧車でもいいですが、輸入車もクルマ選びにおいては、マイノリティであるということは社会性を養うことであると思うのです。まず他者(他のドライバー)へも他車へも愛情と真心を持って接したい。その第一歩はそれ以上に自分自車に対して愛を注げているか。これが大事だと感じるのです。
道路上でも、クルマ選びにおいても、受け身で漫然と、ではなく「積極的にマイノリティであれ!」気づきも多く交通安全に対する意識も上がるような気がするのであります。もっとも、個人的にはこのスタンスで、仕事のクルマもレンタカーでも、いつでもハンドルを握っていたいとは思うのですが。
だから思うのです。最初のクルマこそ、輸入車を務めて選ぶ。大いにありな選択肢であると感じています。
[ライター・画像/中込健太郎]