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更新2020.08.19
当時は首都高が600円。バブルの頃の道路事情を懐かしむ
ryoshr
1.六本木ハリウッドトンネル
今でこそ東京の有名なランドマークのひとつである六本木ヒルズがある場所は、かつては「テレビ朝日」と「ハートランド」というレストランと、スエーデンセンターという名の北欧のアンテナショップ、そして墓地だった。けやき坂なんて坂道は存在してなかった。
そして何より、六本木ヒルズの下を貫通しているトンネルは、当時は細い一方通行のトンネルだった。正式名称は知らないが、通称「ハリウッドトンネル」と呼ばれていた。出口の頭上に「ハリウッド化粧品」という看板がついていたことに由来していることと、ハリウッド化粧品の本社がすぐ近くにあったから、らしい。
このトンネルは、芋洗坂を通らずに青山方面から麻布十番への抜け道として使われていた。青山墓地側も、地下鉄乃木坂駅の出口の真上は今でこそY字交差点だが、当時はただのコーナーだった。それが六本木ヒルズの完成にともなって、青山方面から麻布十番へズドンと抜けられるトンネルに進化して飛躍的に便利になったわけだ。
これに地下鉄の開通も重なって、麻布十番はついに陸の孤島から脱出したんだと思っている。現在では国際的かつ大混雑する麻布十番祭りは、バブルの頃でも本当に東京の真ん中のお祭りか?と思うほど地味でほのぼのしたものだったことを懐かしむ人がいるかもしれない。
2.新宿御苑トンネル
バブルの頃、初台方面から新宿へ向かって国道20号(甲州街道)を抜けて、さらに新宿駅南口を通過したあと、明治通りにぶつかる交差点はほぼT字路だった。新宿御苑の横を抜ける細い道はあったものの、今のようにズドンと四谷側へは行けなかった。
逆に四谷方面から新宿に向かって新宿通りを走ってくると、マルイの前を抜けて駅にぶつかってしまい、そのまま大ガード(青梅街道)に向かうか、明治通りで左折、甲州街道ですぐに右折としないと初台方面には行けなかった。振り返ると、明治通り大渋滞の元凶であったことは間違いない。今のように新宿御苑の真下をトンネルが開通し、新宿駅南口から四谷方向へまっすぐ抜けられるなんて夢のようなことだったのだ。所要時間半分以下になったように思う。
3.首都高速湾岸線
今となっては、千葉の浦安あたりから、神奈川の横横までズドンと繋がってる道といえば首都高湾岸線だ。しかし、バブルのころはズドンと繋がってなかった。まず、浦安あたりから大井まで開通し、その頃はスープラ最高速軍団が東京から千葉県へ向かってアクセルを踏んでいた。
その後ベイブリッジが開通したが、当時は横羽線で南下して、金港ジャンクションからベイブリッジへ行くしかなかった。まわりに大した目的地もなく、当時はベイブリッジそのものが目的地だった。路肩にクルマを停めて横浜港を眺めるなんてことができた牧歌的な時代だったように思う。当然、パトカーやら道路公団のクルマが「停まらず進め!」と怒鳴ってた気がするが、みんなで停めれば怖くない的なノリもあった(笑)。
習志野ナンバーの若葉マークドライバーが乗るクルマにナビが付いているわけもなく、当時のホッドドッグプレス誌によれば「彼女に地図を見せて案内させるのはダサい、運転中に地図を見るのもイマイチ」と書かれていたのを真に受けて、ベイブリッジ開通時には男友達と下見に行って道順を確認したのは筆者だけではあるまい。
とはいえ、当時は首都高が600円、横浜あたりの首都高が400円という別料金だったので、貧乏学生には贅沢なドライブコースだった。その後、大黒から空港中央が開通したのはバブル崩壊後の1994年、もう23年も経ったのだ。
なお、前に紹介した二つのトンネルは当時を知る中年以上のおっさんたちが、「うひょー、ここがこんなに速く抜けられるなんて夢のようだー」と言いながらキモチよく飛ばしていたせいなのか、今では速度違反の取締が頻繁に行われているので、当時を知るご同輩は、スピードには気をつけて安全運転をお願いしたい。
また、首都高湾岸線は3車線で、いかにも「高速道路」っぽいが、実は首都高の一部なので、最高速は100km/hではなく、原則80km/hだ。区間によってはもっと低い制限速度なので、便利さ(?)を堪能するときにはご注意を。
これから東京オリンピックに向けてさらに道路の整備が進み、さらに渋滞が減ったったり、目的地まので所要時間が短くなったりして、結果的に大気汚染が減ったり、交通事故が減ったりするんだろうと想像する。しかし、そんな時代にあっても高い自動車税を納めている旧いクルマたちが、新しい道路をキモチ良く走れるような法整備もお願いしたいところだ。
[ライター/ryoshr]